「ここ、勇者しか辿り着けないの」
そう言われるとなんだか“特別な人間だけしか辿り着けない場所”みたいな怪しい雰囲気がただようが、ようはGoogleマップや地図にも載っていなく、普通の住宅街にある何てことない普通のアパート。
あるのは窓から見える得体の知れない「貸本屋」の文字だけで、それが何屋なのかもよくわからないまま、階段を登ってみたところで、ドアには何も書かれていない。
そんな状況で「あの、、すいません・・・」と、自らノックして入っていくのは、わりと勇気がいる。
私もあの時、るいちゃんと一緒じゃなかったらきっとノックしていない。
そうゆう意味での「まぁ、入るのにわりと勇気いりますわな、ここ」というニュアンスで言ったのだと思うが
まぁ何でそんなに入りずらい雰囲気にそもそもしているのか、というと
そこを運営している女性自体が、あまりそこを拡大していこうだとか、お客さんを増やしたいといった欲望が一ミリもないのがベースにあるのが、面白い。
“本当に本が好きな人。漫画が好きな人。そういう人に、その時一番ささる物語が届いたらいいな。”
ただ、態度が悪やつとか、人としての当たり前のことができない奴は、悪いけどうちではごめんなさいね。
と言ったドーンとした態度。それが気持ちいいくらいに面白い。笑
そしてあるていど会話してまぁこいつとりあえず様子見てもいいかラインに入ると
「もしかしたら今、これ読んで見るといいかも。」と言った感じで漫画を紹介してくれる。
これがもう・・・漫画ってこんなに面白かったのか!
と、30過ぎて脳みそが躍り出すような衝撃を与えてくれるものばかりなのだ。
私が初めて「今日はこれかも。」と言って、勧められてお借りしたのが「アルキヘンロズカン」というコミックエッセイだった。
これは四国のお遍路をやってきた人の実体験に基づいて書かれた漫画なのだが(ようは筆者が実際に2ヶ月くらいかけて四国にある88ヶ所の寺を歩いて回った体験記である)
これがまぁ、綺麗な出来事ばかりでないのが、めちゃめちゃリアルで面白い。
「お遍路」というと何だか神聖なもので、まるで88ヶ所寺を回れば
何かいいことが降り注ぎそうな、人生丸ごと洗濯して一度まっさらにしてくれそうな、そんな気がしてしまうが
現実はそんなイメージを利用した「お遍路詐欺」というものが、あっちゃこっちゃで繰り広げられていて、騙し騙されの心理戦なのである。笑
泊まる場所がなくて困っているところ、声をかけてくれた人が、夜になると「自分は霊能力があるから透視してやる」的なことを言い出して、体に手をかざすなり当たり前のように胸を揉み出したり
納経帳(88ヶ所、全ての寺で、その寺のスタンプみたいなものを集めるノート的なもの)が
88箇所全て集めてあるものは「ご利益がある」とネットで高く売れるため、後半に差し掛かるとすぐ盗まれるようになったり。笑
何だか想像を上回るドロッとした人間の欲が、つぎつぎに飛び出して、読んでいて思わず「マジかよ。」とか「へぇぇ。」とか声を出して頷いてしまう。
やはり事実を自分の目で見た人の表現。
自分で見て、考えて、感じた人の表現というものは、どうしたって心動かされてしまう何かがある。
そしてそんな詐欺が実際にある。と知りながらも読み終わった後に「やばい。お遍路行ってみたいな」と思ってしまう魅力。
何だろう。けっきょく人間どこまで行っても、何かや誰かにすがって安心できることなんて何一つないんだな、という絶望と共に
でも、じゃぁ実際、2ヶ月もかけて何十キロも寺をまわって歩くことに、本当に「全くなんの意味もないのか」と言われたら、そうじゃないよな・・・という確信も同時に残る。
ただ、それが何なのかはわからない。
だから結局、そこだけは自分で掴み取るしかない。
【一人で何キロも孤独に歩く時間】って、人生の中にいったい何分あるだろうか。
ただ、生まれて死ぬまでの時間が用意されているだけのシンプルな毎日の中で
自分って何なのかとか、これを見て自分はどう思うのか、とか。
これから自分はどうやっていきたいのか、でも何がネックで思いきれずにいるのか。
いや待てよ、そもそもそんなにネックになるようなことか?これ。とか。
普段とりあえず今を生きていくために、無意識にシャットアウトしてしまっている自分だけしかこじ開けることのできない本心のさらに下に眠る、超本心。
たとえそれが綺麗なものじゃなかったとしても、そうゆうものを本気で考える時間というのが、死ぬまでの間に1~2ヶ月くらいあっても・・・良いんじゃないか?
そんなことを思ったりした。