「〇〇さんって変わってるよね。」
と、人から言われたら嬉しくなるだろうか?不安になるだろうか?
私はその言葉に、時にニヤニヤし、時にビクビクした。
それがもしも「ほんっとあんた個性的で面白いよね~」的なニュアンスで言われたのなら
おそらく見たことない角度まで口角をつりあげて、お尻ふりふり嬉しみのダンスを踊るが
「あのさ・・・普通はそうゆうやり方しないと思うけど・・・ほんと・・・変わってるよね・・・」的な
あなた常識ってご存じ?それはちょっと・・・てきな意味で放たれたものであれば、一気に気持ちが萎縮し、心臓が嫌な音を立てて叫ぶ。
どっちもある。今まで。・・・うん。
そして思ったんだ!
「変わっているよね。」と言う言葉は変わっているかどうかの事実より
それが好意的に向けられたものなのか、そうでないのかの方にこそ
本当の意味が含まれているのではないだろうか・・・?
三島由紀夫の「仮面の告白」という小説には、それが書かれた当時では珍しい同性愛の男が出てくる。
今みたいに「みんな違ってみんな良い」の精神が受け入れられなかった昭和のど真ん中。
男たるもの。女たるもの。こうであるべき。
そんな世間で求められているイメージに気付きながらも、なんとか自分もそっち側であると(世間側である)と思い込もうとするが
どうにもならない男への欲情は、ねじれた自己愛と溶け合って
幼少期から長い時間をかけてじっくりコトコト煮込まれ、やがて沸騰し、吹きこぼれる。
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主人公の「私」は、生まれながらに体が弱く、内気な性格だった。
そんな私が憧れたのは正義のヒーローではなく
ぼっとん便所に落とされた糞尿を、えっさほいさと運んでいく糞尿くみとり員なるものだった。
その糞尿をくみとる若い男の勇ましい姿に、なんだかよくわからない変な憧れを持った私は、彼のモモヒキになりたいと思った。笑
その後も、男への性的な欲望の種となるような、すごく印象的なシーンがいくつも続くが
その中でも、最も決定的だったのは一枚の絵画との出会いだった。
【聖セバスチャンの殉教】と名付けられたその絵は
はだかでマッチョの男が、そのムキムキな腕を頭の上でガッシリと縄でくくりつけられ
むき出しになった脇と腹には、2本の矢がブスッと刺さっていてる。
彼はそれを見て、どうにもならない激しい欲望にヴァっと駆られると
それを見ながら、初めて自分の手で自分のものを慰めた。
ここでもう一つ、彼の性壁の深さが浮き彫りになるのだが。
彼は、ただ男に欲情するのではなく、矢が刺さっていたりだとか、血を流して死にそうになっている男に対して興奮を覚える。しかも、そのどれもがゴリッゴリのマッチョである。笑
この性的な描写はものすごく生々しく、グロテスクで、残酷で「マジかよ・・・もう勘弁してくれよ。」と、思わず目を細めたくなるようなシーンがたくさん出てくる。
・・・が、きっとこの本の魅力は、グロいとか、グロくないとか、そうゆうところにはない。
彼がそうゆうものを秘めながらも、なんとか世間では「ばれないように」生きていこうとするところだとか
「あれ?もしかして頑張れば俺も女と恋できんじゃね?」と
恐る恐る、どうかな?どうかな・・・?と、自分の体ははたして普通の恋も受け付けられるのか?みたいに、ためすように望んでみるところ。
そして、人とは違うというところに、ものすごく深い絶望を抱えながらも
同時に「逆に俺すごくね?」みたいな優越感にも浸る感じ。
劣等感とナルシシズムを、行ったり来たりのシーソーゲーム。
自分なんてダメだという思いと、俺はお前らとは違うんだという、ねじれた自己愛。
そういったところがものすごくリアルで、きっと世間の普通というものに、絶望的な生きづらさを感じている人なら、何かしら貰えるものがある作品でございまする!
きれいに飾られたお決まりの声援よりも、ねじれた本心の方がよっぽど人の心を救うこともある。
それがこの世界で、ゆいいつ許されるのが、本であり芸術だ。
だから読書はやめられないよなぁ~と、思わせてくれる最強の一冊。