ひゅーんひゅーん。
ひゅーんひゅーんと冷たい風が、頬の横をすりぬける。
深夜1時半。
オレンジ色の街灯に照らされた静かな坂道を、ブレーキをかけずに一気にすべり降りる。
両思いであっても、片思いであっても
好きな人に会いにいく夜というのは、どうしてあんなにもツヤツヤと光り輝くのだろうか。
もうあと何分かで会えるというのに、これからするかもしれない会話や、あの時のあれ聞いてみようかなとか。相手の顔とか、仕草とか。
いろんなことを脳内に膨らませながら、ゆっくり大きく息を吸い込むと
キラキラとした夜の空気が、肺にパラパラ降りつもる。
あの、感覚。
あれをもっと色鮮やかにしたような、体で読む本というものに、私はついに・・・出会ってしまったのであるっ!
「こっち!こっちこっち!」「こっちにおいでよ」と見たこともないような世界へと、グイッと手をひっぱられたかと思うとそのままどこまでも飛んでいけそうな
腹の底から笑顔が咲きこぼれる世界に、いやがおうでも連れてかれてしまう・・・そんな感じ。
******
それはある夜。
彼女が大学の先輩から、結婚式にお呼ばれした帰り道でのことでした。
「お酒が・・・お酒が飲みたいぞ」と思った彼女は参加者がゾロゾロとたむろする人溜りをぬけだすと、一人、お酒を求めて夜の街へと繰り出したのです。
お酒・・・それは彼女が今まで踏み込んだことのない、めくるめく大人の世界へと連れていってくれるような魅惑の液体。
うきうきと目を光らせながら、たまたま見つけたBARの椅子に腰掛けると、カウンターの端に座ってた中年のおっさんが
「ねぇきみ何か悩み事でもあるんじゃないのおん?」
と話しかけてきたのでした。
「東堂さん」と名乗るそのお方は、なんだかとても距離が近く、彼が身をすり寄せてくるたびに、野生的なたけだけしい香りが、彼女の鼻をするどく刺激しました。
この奥深い匂いこそが「大人の男の香り」なのかしら・・・と彼女は思いました。
そんな東堂さんは、話を聞いていると、どうやらお仕事で色んなことがあったらしいのです。
そんな彼の悲痛な人生の叫びを聞いた彼女は、なんだかとても哀しい気持ちになってゆきました。
彼は言ました「良い子だね、きみは。」「俺も長い間、いろんな人間を見てきたけど、君のような娘さんをもてた親御さんは幸せだと思うな。」
「俺もね、娘がいるんだよ」
東堂さんはそうつぶやくと、なんと別れた奥さんとの間の娘さんの話もしてくださったのです。
「親が子どもに願うことは、ただ幸せになってくれ、それだけだ。」
でも、幸せになると言うのは、誠にムツカシイものです。。。
「もちろんそうだ。親もそれを子どもに与えることはできん。子どもは、自分で、自分のための幸せを見つけなければならん。」
「しかし娘が幸せを探すためなら、俺はどんな手助けだって惜しまないね。」
なんとゆう素晴らしいお方なのでしょう。
こんなふうに心の清い方というのは、なかなか居られません。
そんなことを思いながら、彼女はふと胸のほうに違和感を感じました。
「すいません東堂さん、手が。」
「手がなんだい?」
「手がお胸に当たっております。」
「あ、ごめん、失敬」
そうお伝えすると、東堂さんはいったん手を離すのですが、しばらくするとまた手が、私のお乳に触れるのです。
その時でした。
「・・・この、スケベオヤジが!」
どこからともなく威勢のいい言葉が飛んできたかと思うと、その声の主は、迷うことなく東堂さんへと詰め寄りました。
「そんなに揉みたいなら、私の乳を揉ませてやる、ほら!」
なんと勇ましい女性なのでしょう。
私は思わず彼女のその勇ましさに見惚れてしまいました。
すると東堂さんは「あ、あんたいたのか」とかなんとか。
モゴモゴ何かを言ったかと思うと、まるで風のようなスピードで荷物をまとめ上げ、扉の向こうのへと、走り去っていったのです。
・・・。
ああ、なんだか悪いことをしてしまいました。
あれほどためになる人生論を聞かせてくださいましたのに、たかがお乳の一つや二つ、まぁお乳は二つしかございませんが。
ともかくそれぐらい平気で受け流しておくだけの器の大きさを、なぜ私はもてなかったのでしょう。
(夜は短し歩けよ乙女より引用)
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なんなのだろう。
この、品の良い鈍感さが醸し出す可愛らしさは。。
“たかがお乳の一つや二つ、まぁお乳は二つしかございませんが。”
この一文に目を通した時、私は山手線の車内で、プルプルと小刻みに背中を震わせたかと思うと
それを抑えようと、深呼吸をするたびに「ギュアイー」という謎めいた音を マスク越しに発砲してしまい、大変な思いをした。
良い子なのか、頭が悪いのか、とにもかくにも放っておけない主人公。
そんな彼女が、一夜にしてその目に映すあれやこれやは、とても美しく、懐かしく、そしてなんといっても可愛らしい。
BARでの乳もみ事件をきっかけにして、救ってくれた女性や、その女性を取り巻く、なんとも危しい魅惑的な者達と、手を取りあって彷徨う夜。
読み終わった後も、胸の中にユーモアとノスタルジックがパンパンに詰め込まれて
しばらく苦しくなってしまうような、そんな作品でございます。