【ライ麦畑でつかまえて・JDサリンジャー〔訳:村上春樹〕】
「これ言っても、たぶんわかってもらえないだろうな・・・。」
人と話していて、何かを言うか言わないかで迷ったことってないだろうか?
言ったところでたぶん、わかってもらえないだろうなこの感覚・・・みたいな。
何というか、その人の普段から発している言葉や雰囲気から「たぶん伝わらない」ということだけは、先にはっきりとわかってしまう感じ・・・。
若いうちはそれを「本音を言い合えない関係なんて意味なくなぁーい?」
なんて勢いのある反抗心でもって、世の中丸ごと鼻で笑ったりもできてしまうのだが
大人になっていくうちに人は、全ての人に対しそのテンションでのぞむことはできないことを学ぶ。
人は会話にまざりこむ、ありとあらゆる雰囲気から
「たぶんこう言ってほしいんだろうな・・」とか
「これは言わない方がいいよな・・」というのを
どこかで察し、それに合った言葉や態度を無意識レベルで選ぶようになる。
それが、いわゆるコミュニケーション能力であり、それがないと生きていけないのが世の中だ(´・ω・`)
でもそんな。いわゆる世間の「本音と建前」みたいなものに、まだまだ染まりきれていない中途半端な少年時代・・・
・・・みなさんにもあっただろうか?
●好きや嫌いを、堂々と世の中に向かって叫ぶことができた時期。
●何の恐れもなく、大人のおかしさを責めることができた時期。
サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」に出てくる
16歳の少年、ホールデンは、そんな世の中に対しての違和感にものすごく敏感だ。
あれもおかしい、これもおかしい。
どうなってんだ世界、大人、人間!!
その怒りは、世の中や大人から始まり、ルームメイトや、片思いの子、親、そこら辺にいる知らない人までどんどん飛び火していく。
何でだよ。何でみんなわからないんだ!
おかしいと思わないのか?
オレは思うよ?
あれも間違ってるし、これも間違ってる。
そして飛び出す・・・。外の世界へ。
どうせわかってくれないなら、オレはもう一人で生きていく。
*******
16歳の少年。
ホールデンは、ある病院で療養をしていた。
ベットの上で時間をもてあましながら、いろんなことに思いをはせるうちに
気づくと彼は、まるで読者の我々がそこに居るかのようにこっちに向かって話しかけてくる。
“こうして話を始めるなると、まず君は最初に、僕がどこで生まれたかとか、どんなみっともない子供時代を送ったかとか・・・その手のデイビットカッパフィールド的なしょうもないあれこれを知りたがるかもしれない。〔p5より引用〕”
「デイビッ・・カッパ・・・ん?」
「なんか、こいつめっちゃ話しかけてくんじゃん(・・;)」
そんなことを思っているうちに物語はどんどん進み、気づくと彼の心の中へと取り込まれている。
その語りは
「ちょっと聞いてくれ。」
「オレ、高校から退学処分くらったんだが。」
「あーもう、マジでだるいわー。」
という、強がり系・絶望暴露からはじまる。
理由は、単純だ。
手がつけられないほどに成績が悪かったから。
やべーなやべーな。親に知れたら、めっちゃダルイことになんじゃん。
せめて、退学通知が実家に届くまでは・・・思う存分メチャクチャやらせてくれ、あー!!!
そんな、どうにもならない やりきれなさを抱えた学校一の問題児は
せめてもの救いの、わりと良い感じに溜まっていた貯金を、ガシッと雑につかむと、外の世界へと飛び出す。
「ちがうちがう、オレはお前らとは違う。」
「もっと本質的なものを大事にしてんだよ。」
そんな魂からの怒りを飛び散らせながら・・・。
【ライ麦畑でつかまえて〔訳:村上春樹〕より引用】
*******
・・・・うん。
そうです。
これは、めちゃめちゃ雑にまとめてしまうと、いわゆる世界を代表とする・・・
「 ザ・中二病作品」なのであります(`・ω・´)
中二病界のガチプロ・・・それも世界的な。
だが、この作品のミソはそこではなく・・・
彼が、そんなやりきれなさに振り回されながらも、心のどこかではずっと「そんな自分を誰かに助けてほしがってる」というところにあると、私は思うのです。
作中にこんなシーンがあります。
ゆいいつ心を開ききっている、妹のフィービーに「もうやめてやってくれよ」ってくらい、心の中心をタコ殴りにされるシーンところ。
妹 「兄さんは、どんな学校だって嫌なんだ。嫌なものだらけなんだ。そうなのよ。」
兄 「そんなことない!」
妹「 じゃあ一つでも、好きなものや、なりたいものを言ってみなさいよ。」
ぼ、ぼくは・・・・!
ぼくはね!!
ぼくは、ライ麦畑でつかまえる人になりたいっ!
・・・・・?
*****
例えばさ、小さい子どもが集まって、自由奔放にキャッキャと遊び回ってる、ライ麦畑があるとするだろ?
そこにはさ、僕とその子どもたち以外は誰もいないんだ。
そんでね、もしも、もしもだよ?
その子どもたちの遊びがエスカレートしてしまったら・・・
もしかしたら彼らは、ライ麦畑のはじっこの崖になってる部分から、転がり落ちてしまうかもしれない。
それをね、僕はしっかりと捕まえてやりたいんだ。
絶対に落っこちないように。
そうゆうことを、やりたいんだ!
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ちょっと何いってるかマジで意味わかんなすぎるが。これはもしかしたら「彼自身が、誰かからしてもらいたかったこと」なのかもしれない。
もしも「ライ麦畑=世の中」だとしたら・・・
そこからピンっと弾き飛ばされてしまった、社会の出来損ないである子どものままの自分を
「ファイト!イッパーーーーーツ!」の精神でもって、ほんとは誰かにすくい上げてほしかった。
助けて。助けてよ。
誰も助けてくれないの?
・・わかったよ。
だったら僕は、自分自身が助ける側になるよ。
そんな風にもよめる・・・(´・ω・`)
怒りというのは「第二の感情」だと、昔大学で習ったことがある。
怒りの前には必ず、第一の感情「寂しさや悲しさ」があるという説だ。
本当は受け入れてほしかった気持ちを「思ったように受け入れてもらえなかった」時。
人は、拗ねる。
「何だよー」と。相手に期待していればいるほど、その感情は大きくなって爆発する。
大人は、実は大きなサイズの子どもにしかすぎないのかもしれない。
「ライ麦畑でつかまえて:JDサリンジャー」
このあまりにも有名すぎる世界的ベストセラーは、最初から最後までずっと、主人公の愚痴や不満が塗りたくられているが
どうしてこんなにもジメジメとしたものが世界的ヒットとなり今でもビレバンにまで置かれているのか・・・
それはきっと、誰にでもある心の中に閉じ込めてしまった「子どもの自分・監禁所」の扉を
あまりにも真っ直ぐすぎる主人公の叫びによって、トントンっとノックされてしまうからじゃないだろうか。
トントン。
お前さんもまだ、本当はただの大きい子供だろ?
トントン。
たまにはそうゆうの思い出したって、良いんじゃないのか?・・と。